板倉弘明がみた対厳堂

その他 2017.12.27

「土と戯れる」

 土をつかんだり、粘土に触る、という経験は、多くの人にとって遊びの原体験なのかもしれない。夢中になって泥団子を作ったり、砂場で山をこしらえたり、海岸で小さな堤防を築く。その感覚はとても優しく、そしていつまでも飽きることなく、気分はとてもよかった。

 三代山根興哉に、失礼ながら「陶芸とはそういう経験に近いものですか」と尋ねると、「そう、そうなんですよ」と身を乗り出して答え、私は少しホッとした。

 磁器と陶器で異なるもの。それは土の表情が前面に出てくるか、否かかもしれぬ。興哉がこだわるのは圧倒的に陶器であり、土だ。

 時には「聞かん子」がいたり、時には「素直な子」がいたり。
轆轤に土(=粘土)を乗せ、興哉が手を添えた時に、まるで我が子のように土たちは実に個性的な反応を示すのだという。

 興哉は西条(広島県東広島市西条町)の土を好んで使う。ただし一言に西条といっても、土の性質は実に多岐に渡る。

 結婚前、二人で車を走らせていると、「突然車を止めて土を採取し始めるんですよ」と、妻は笑いながら振り返る。

 実用品として使う陶器を作る際、通常は40−60メッシュと呼ばれるフルイ目(フルイの網の目の細かさを表す)を通した土を使うことが多い。仕上がるのは手に馴染む、使いやすい肌触り、とでも言おうか。

 だが興哉が作品として取り組む時には、より目の荒い20メッシュのフルイ目を通した土を使う。荒い土を使った方が「表情がある」のだという。

 興哉がこだわるのは「土が伝えたいものを手助けする」こと。どんな形にするのかは粘土に聞く。例えば轆轤に乗せた時に、手を添えても素直にまっすぐにならない土がある。それならば直立しなくても良い。器としてのギリギリの形になるまで手を添え、これ以上添えると粘土がつぶれる寸前で手を離す。すると出来上がった器は、器としてはいささか不恰好なものとなるわけだが、その形は“土の性格そのものの姿”である。

 私はこうして出来上がった、一つの湯呑みを手に取った。それはかなり手の大きい私の手にしっとりと馴染み、なんとも言えない肌と肌がしっかりくっつくような、例えて言うならば赤子をしっかりと抱きしめているような、そんな安心感を覚えた。

 別の器を手にする。漆黒の表面に白い点がいくつも見える。科学的に言えば、土の中の不純物が焼成されてできたものだ。「宇宙のチリとか、そんなものに見えませんか?」興哉はそう言った。

 いずれも土の表情がそのまま作品として現れている。見た目の優しさ、温かさ、懐かしさ、不思議さ、無限の広がり。このキーワードはいずれも興哉が口にした「表現したいもの」である。

 どうだろう。子供の時に私たちが土や粘土に触れて感じたこと、そのままではないだろうか。山根対厳堂・三代山根興哉が伝えたいこと。それは土自身が伝えたいこと、そのままなのだと思う。

 私はそんな興哉の仕事場を、ご縁あって2度ほど撮影させて頂く機会があった。ファインダーから覗く興哉の顔。ピントを合わせたのは、土と贅沢に戯れる澄んだ目だった。その目は、きっと今日も土と対話をしているのだろう。きみは何を伝えたいんだ、と。

 そしていま。少し不恰好な、それでいて手にしっかりと馴染む湯呑みは、私の自宅で三食の食卓に必ず鎮座しているのである。

<了>

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